2024年10月号
運行から100年!都営バスの昔の姿って?
1924(大正13)年1月18日、東京市営バス(現在の都営バス)は走り始めました。今年2024(令和6)年は、それから100年の節目の年にあたります。「巣鴨-東京駅前間」「中渋谷-東京駅前間」の2系統、バス44両で始まりましたが、今では127系統で約1400両ものバスが、毎日都内各地を走り回っています。生活に身近な東京の移動手段として欠かせない大切な交通機関ですね。みなさんも、お出かけに利用する機会も多いのではないでしょうか。
それでは、都営バスの100年の歴史を振り返ってみましょう。
都営バスの役割
都営バスは、東京都交通局が運行するバスで、東京都区部の中心部から下町地域にかけて、江戸川区の一部、多摩地域の一部で運行しています。東京23区内では乗った距離に関係なく一律の運賃(大人210円、小児(現金)110円、小児(IC)105円)で利用でき、安全・安心の確保を最優先に、お客様のニーズや利用状況の変化をとらえたサービスを提供しています。1日の平均乗客数は約61万人。走行キロ数は1日平均約12万キロメートルと、地球3周分にもあたる距離を毎日走っています。まさに都民の生活に欠かせない、貴重な“足”です。
💡だれもが使いやすいバリアフリー車両
東京都は都営バスを“だれもが使いやすいバス”にするため、より段差の少ない「ノンステップバス」の開発にいち早く取り組みました。
1991(平成3)年には、床の高さが一般的なバスの85cmに比べて大幅に低い55cmの「超低床バス」をバスメーカーに依頼して開発、2012年度末にはすべてのバスが床面高さ約30cmにまで低くなったノンステップバスになりました。2018(平成30)年にはバスの通路に段差がない「フルフラットバス」も導入して、高齢者や車いすを利用される方などが、より使いやすい車両となりました。
💡環境にやさしいバス
都営バスの車両は最先端。ディーゼルエンジンを電気モーターで補助して走る「ハイブリッドバス」を1991(平成3)年から導入し、大気汚染を引き起こす排出ガスや、地球温暖化の原因となる二酸化炭素をできるだけ出さないように取り組んでいます。
また、2017(平成29)年からは水素と空気中の酸素により電気を生み出し、その電気でモーターを回して走行する「燃料電池バス」が運行しています。この燃料電池バスは、どれだけ運転しても二酸化炭素を出さない“究極のエコカー”として注目されています。
💡緊急時にも活躍
大規模災害が起こった時には、被災者を乗せて移動するなどの対応をとったことがあります。
1986(昭和61)年に起きた伊豆大島三原山の大噴火で、島民全員が島から避難した際には、移動のためのバスを緊急で用意し、約1万人の住民を安全な場所に移動させる役割を果たしました。
1995(平成7)年の阪神・淡路大震災や、2011(平成23)年の東日本大震災の時にも、現地に救援に向かう東京都職員の移動に活用されました。
運行のきっかけは関東大震災――100年の歴史
1920(大正9)年ごろの日本では、自動車はとても高価なもので、一部の人しか持つことができませんでした。一般の人が利用する主な交通機関は路面電車で、ほかには人力車や馬車、荷車などでした。当時の東京市は路面電車と合わせて、乗合自動車(バス)を運行する計画もありましたが、民営バスが先に運行を開始し、東京市営でのバスは、まだ運行されていませんでした。
1923(大正12)年に関東大震災が起きた時、東京市内の中心的な交通機関だった路面電車も大きな被害を受けました。約400両もの市電が動けなくなり、火災でたくさんの車両が焼けてしまいました。橋の多くが焼け落ちるなどして、線路も大変な被害を受けました。
復旧に力を入れましたが、線路を敷き直したり、新しく車両を買うにはかなりの時間がかかります。一方で、人々の交通手段はすぐにも確保しなくてはいけません。そこで注目されたのが、すぐにも運行できそうな自動車でした。
当時、国産の自動車は生産が始まったばかりで、技術力はアメリカの自動車会社にとてもかないません。東京市はすぐに、アメリカの大手自動車会社「フォード」に自動車を注文しました。そして運転手を育てるため、電車乗務員の中から希望者1000人を募集し、陸軍自動車隊などで運転を練習させ、運行に向けて急ピッチで準備をしました。
関東大震災から4カ月後、計画決定から3カ月後の1924(大正13)年1月18日、「巣鴨線」「渋谷線」の2系統でバスの運行が始まりました。運転手だけのワンマンカーでしたが、乗客数は1日約7500人。東京市民の貴重な足として利用されるようになりました。
市営バスの運行は、当初は路面電車が復旧するまでの予定でしたが、市民の足として親しまれたため、それ以降も運行することになりました。
第二次世界大戦で燃料不足に
1930年代になると、バスは30人乗り前後の車両が中心となりました。車両の多くは引き続きアメリカ産でしたが、国産車も次第に採用されるように。1日の平均乗客数は、1937年度には約30万人にも達しました。
自動車の燃料であるガソリンは、すべて輸入に頼っていました。第二次世界大戦が始まると、ガソリンはすべて戦争に使われるようになり、日本はたちまち燃料不足になりました。資源はすべて軍隊関係が優先され、バスの運行もこれまで通りにはいかなくなったため、東京市はバスの燃料をガソリンではなく木炭にする「木炭車」に改造することを決め、1938(昭和13)年1月には木炭バス第1号が走り始めました。
1941年度末には、1981両あったバスのうち、1516両が木炭車になりました。戦争が深刻化すると、十分な燃料が確保できないほか、新車の導入や、車両の修理・維持も難しくなりました。一方で利用者は増え続け、1942(昭和17)年の1日平均乗客数は56万9000人にもなりました。
そして1943(昭和18)年7月、それまでの東京府と東京市が廃止され、新しく東京都が発足しました。これによって、市営バスの運営を東京都交通局が行うことになり、「都営バス」と呼ばれるようになりました。
戦後の都営バス再整備
戦時中、東京は大空襲を受けるなどして焼け野原になり、関東大震災の時のように路面電車も大きな被害を受けました。1945(昭和20)年8月の終戦時は、動かせるバスはわずかでした。
そこで新車を購入し、残っていたバスは大修理を行いました。ほかにもアメリカ軍から中古の軍用トラックを買い取り、バスに改造しました。その後も新車の台数を増やすとともに、車両も大型化。こうしてほとんどのバスが50~60人乗りとなって輸送能力は大幅に増えました。
1950年代になると東京近郊で人口が急速に増え、近郊に住む人々を都心部へ運ぶ輸送が大きな課題となりました。そこで東京都は、民営バス会社との相互乗り入れを始め、路線を拡大しました。
路線の拡大によって交通量が増えた都心部では、渋滞も課題になっていました。自動車の走行を優先させるために、路面電車である都電は都電荒川線(現在の東京さくらトラム)を残し、1963(昭和38)年から1972(昭和47)年にかけて次々に廃止されていきます。こうして都電は都バスに姿を変えて路線を増やし、運行エリアをさらに広げました。
バスのかわりに大通りを電車が走っていた時代があったなんて、驚きですね!
ますます便利に進化する都営バス
こうして人々の足となって働く都営バスをさらに利用しやすくなるよう、バス停に屋根やベンチの設置を進めるなど、さまざまなサービスを提供しています。そのうちの一つが、パソコンやスマートフォンなどから利用できる「都バス運行情報サービス」。都営バスが今どの辺りを走っているのか、利用したいバス停はどこにあるのか、どの系統に乗ればよいのかなどを簡単に調べることができます。
このサービスを使えば、慣れない目的地に行く時も安心ですね。特別なデザインの「ラッピングバス」がどこを走っているのか、などを調べることもできます。
さて、都営バスの歴史はいかがでしたか?
都営バスは、時代の要望にあわせて、都民や周辺に住む人々が便利に生活できるように努力してきました。 みなさんの生活を支える公共交通機関として、次の100年に向けて歩みを進める都営バス。街で見かけたら、ぜひその歴史と未来を思い浮かべてみてください。
都営バスでお出かけしよう!
今年で25周年を迎える都営バスのマスコットキャラクター「みんくる」。名前は“みんなのくるま”と“都民の車”に由来しています。都営バスがいつまでも都民のたよれる足でありたい、という思いがこめられています。
❖みんくるが主役!YouTubeチャンネル
みんくるが主役のYouTubeチャンネル「みんくる・とあらんのゆるっ都Channel」では、都内のお出かけスポットや東京の有名観光ルートなどを通るおすすめ路線や、都営バスに関するクイズ、都営交通のマナーなどを動画で紹介しています。
楽しみながら都営バスの情報を知ることができるので、ぜひチェックしてください。
❖東京都交通局主催「バスまつり2024」開催!
10月5日(土)に「バスまつり2024」が東京ビッグサイト(江東区有明)で開催されます(入場無料)。本記事で紹介した、震災後の東京復興を支えた現存する日本最古のバス車両(2020年9月重要文化財指定)のほか、さまざまなバスの車両が展示されます。
バスの運転席での記念撮影やグッズ販売、ステージイベントなど、楽しい企画が盛りだくさん。「みんくる」も登場します!
「バスまつり2024」に、みなさんも行ってみませんか。
取材協力=東京都交通局