2023年2月号
みんなが幸せになれる社会って?平和について考えよう
世界のあちこちで起こっている争い
みなさんは、「戦争」と聞いてどんなことを思いうかべますか。ふだんの生活で意識意識することはないかもしれませんが、世界各地では争いが起こっています。2022年にはロシアがとなりの国ウクライナに侵攻し、現在も戦闘が続いています。爆撃からのがれるため、多くの人がわずかな荷物を持って国外ににげ、日本に来た人たちもいます。
20世紀にはアジアでもたびたび戦争が起こりました。1954年に北と南に分かれたベトナムでは、統一と独立をめぐって争いが起きました。この争いは「ベトナム戦争」と呼ばれ、1975年まで続きました。朝鮮半島では、1950年に北朝鮮と韓国の間で戦争が起こりました。1953年に協定が結ばれ、休戦状態が続いています。
日本も昔、戦争をしていたことがあります。1939年にドイツがポーランドに侵攻し、世界中の国をまきこむ戦争「第二次世界大戦」がはじまりました。アジアの国ぐにに勢力をのばしていた日本もこの戦いに加わり、若い男性たちは兵隊としてアジアの戦場に送られました。
戦争が激しくなると、国内の都市部も空襲で焼かれ、子どもをふくめ大勢の市民がなくなりました。1945年3月には沖縄にアメリカ軍が上陸。同じ年の8月には広島と長崎で史上初の原子爆弾がアメリカによって落とされ、多くの人が命を落としました。
1945年8月15日、日本が降伏して戦争は終わりました。たくさんの尊い命を失った日本は戦争を二度と繰り返さないことを誓い、現在に至っています。
ひさんな争いはなぜ起きるのでしょうか。争いの多くは資源や土地のうばいあい、宗教や民族、思想のちがいによる対立、国の内部の政治争いなど、さまざまな原因が複雑にからみあって起こります。はじまった戦争を終わらせるのは、かんたんなことではありません。
戦争が変えた子どもたちの生活
第二次世界大戦の間、東京の子どもたちは、どのようなくらしをしていたのでしょうか。
まず、戦争が長く続くと、食料や日用品が不足するようになり、決められた量しか手に入らなくなりました。そのため、お米さえも十分に食べることができませんでした。もちろん、おかしなどはありません。おなかを満たすために、野菜のツルまで残さず食べることもありました。それでも栄養が足りないため、子どもたちは体調をくずすことがあったそうです。
東京ではたびたび空襲を受けるようになりました。そのため、空襲を受けない地方へ国民学校の子どもたちをひなんさせる「学童疎開」が行われました。子どもたちは親とはなれて生活を送りました。また、戦争がはげしくなると、旧制中学や女学校の子どもたちは、武器を作る工場などで働くことになり、勉強ができなくなりました。
空襲によって親を失った子どもたちは駅の地下道などで寝起きし、くつみがきなどの仕事をしていました。しかし、それでもものや食料が手に入らず、戦争が終わった後もうえに苦しむ子どもがたくさんいました。
平和をちかう「東京都平和の日」
東京都墨田区の都立横網町公園には、色あざやかな花だんがあります。これは空襲の犠牲になった人を追悼し、平和を願うためにつくられた平和記念碑です。記念碑を作るために、多くの人たちから寄付が集められ、2001年に完成しました。記念碑の中には、空襲でなくなった人びとの名前を記した名簿が大切に保管されています。
なかでも1945年3月10日の米軍による空襲は、とくに激しいものでした。数時間にわたって焼夷弾が落とされ、およそ10万人がなくなったと言われています。この空襲によって約27万棟(*)が焼け、東京都は焼け野原となりました。
現在、3月10日は「東京都平和の日」と定められています。東京では、この日の14時に犠牲者を追悼するため黙とうが行われるほか、戦時中の東京のようすを伝える行事が開かれます。戦争を経験した人たちが少なくなったいま、当時のようすを知ることができる貴重な機会です。みなさんも近くの行事にぜひ出かけてみましょう。
*総務省のサイト「東京都における戦災の状況」より
参考リンク
中村哲さんから学ぶ平和への道
紛争が続くユーラシア大陸の内陸国アフガニスタンで、多くの人びとから尊敬された日本人がいます。中村哲さんという医師です。
中村さんはアフガニスタンの村に診療所を開きました。その後、干ばつの影響で水と食料不足に苦しむアフガニスタンの人びとのため、井戸や用水路を作る活動もはじめました。中村さんのおかげで、荒れた大地は農作物を収穫できる畑になりました。すると、生活にこまり、給料をもらうために軍隊に入っていた若者も、武器を置き、農業をはじめるようになったそうです。
悲しいことに、中村さんは2019年にアフガニスタンで武装集団に銃で撃たれ、なくなりました。しかし、中村さんが残した井戸や用水路などは、いまも人びとの生活を支えています。そして中村さんとともに活動してきた人びとは、現在も混乱が続くアフガニスタンで、けんめいに活動を続けています。
中村さんはみんなが幸せになる方法を考え、行動にうつしました。「平和な社会」を築くために、わたしたちができることはなんでしょうか。
まずは、歴史から学び、他の人を思いやる気持ちをもつことからはじめてみませんか。「自分さえよければいい」と考えていると、自分の幸せのために、他の人の幸せを壊してしまうかもしれません。自分だけでなく、みんなが幸せになれるよう行動する人が増えれば、少しずつ平和な世界に近づくのではないでしょうか。
学校のクラスや近所の人など、身のまわりに目を向け、「いま、つらい思いをしている人はいないかな」、「こまっている人のために何ができるかな」と考えてみましょう。そして自分にできることから、取り組んでみてください。
TOKYOものしり辞典
南極大陸はどの国のものでしょう?
地球の南にある氷におおわれた大陸「南極」。じつは、どこの国のものでもありません。南極はとても寒い場所で、長い間、だれも足をふみいれることができませんでした。しかし、20世紀に入り、南極に探検した国や近くの国などが「南極の一部は自分たちのものだ」と主張するようになりました。
人の手が加えられてこなかった南極は貴重な動植物の宝庫で、その自然を調査することによって、地球の変化の歴史などを知ることができます。そのため、1959年に「南極条約」が結ばれました。この条約で、南極は平和目的で利用すること、どこの国も南極を自分たちの土地だと主張しないこと、科学調査を行うときは、国どうしが協力することなどが定められたのです。
日本は1956年に南極へ観測隊を送り、1957年から観測調査に取り組んでいます。東京都立川市にある国立極地研究所の南極・北極科学館では、観測隊が持ち帰った本物の南極の氷や、観測に使われた機器、動植物の標本などが展示されています。北極・南極で撮影されたオーロラの映像も見ることができます。ぜひ見学しに行ってみましょう!
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