2024年7月号
新札の顔! 渋沢栄一ってどんな人?
新しいデザインのお札が、7月3日から使われるようになります。お札を変更するのは、新しい技術を使って、ニセ札をさらに作りにくくするため。お札のデザインが変わるのは、2004(平成16)年以来、20年ぶり。お札の肖像画は、日本が世界に誇る人物で、教科書に出ているなど、よく知られている人から選ばれ、最終的には財務大臣が決めます。一万円札は、これまでの福沢諭吉から渋沢栄一に、五千円札は樋口一葉から津田梅子に、千円札は野口英世から北里柴三郎にそれぞれ変わります。
日本の経済発展の土台をつくった渋沢栄一
新しいお札の顔になる人物は、一体どんな人でしょうか。
渋沢栄一は、日本で初めての銀行など約500ものさまざまな会社を設立・育成し、日本の経済発展の基礎を固めました。津田梅子は、女性として日本で最初の海外留学生の一人で、アメリカから帰国後、「女子英学塾」(今の津田塾大学)を設立し、女性の教育に力を注ぎました。北里柴三郎は、おそろしい伝染病を引き起こすペスト菌を発見したほか、伝染病研究所(今の東京大学医科学研究所)や北里大学を設立するなど、「近代日本医学の父」と呼ばれる人です。
このうち、一万円札の新しい顔になる渋沢栄一は、さまざまな会社や経済団体などの設立や育成に関わったほか、東京の人々のくらしを助ける仕事も積極的に行い、東京の発展に力を尽くしました。
渋沢は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市で生まれました。渋沢の家は、藍染めという染めものの染料などを作って売る裕福な農家でした。教育熱心な父親から、後継ぎとして教育され、大事に育てられました。
やがて徳川将軍家の親類である一橋家に仕える家臣となります。そして主君の徳川慶喜が将軍になる際に、江戸幕府の役人として働くようになりました。
慶喜の弟の徳川昭武が1867(慶応3)年に開かれたパリ万博に出席することになり、渋沢も昭武のおともをしてフランスに渡航します。このとき、ヨーロッパの最新の経済の仕組みや産業の発展を実際に見たことが、その後の渋沢の人生を大きく変えたとも言われています。
渋沢がフランス滞在中の1867(慶応3)年、江戸時代が終わり、次の年に「江戸」は「東京」に名前が変わりました。
明治新政府は日本を近代国家にするために、江戸時代の厳しい身分制度をなくしたり、製糸・鉄道業などで西欧の新しい機械を取り入れ、産業の近代化を始めたりするなど、さまざまな改革を行いました。
フランスから帰国した渋沢はその後明治新政府で働き、2014年に世界遺産に登録された「官営富岡製糸場」(群馬県富岡市)の設立にも関わりました。
明治が始まったばかりのころは、お金の種類がばらばらで、全国でルールを決める必要がありました。そこで渋沢は1871(明治4)年、明治新政府の一員として、「新貨条例」という新しいお金の制度づくりに関わります。
同じ年に、明治新政府の財政を監督する大蔵省に、お金の発行を行う機関「紙幣寮」(現在の国立印刷局)が置かれました。渋沢はその「紙幣寮」初代トップの紙幣頭になり、日本初の近代的なお札である「明治通宝」の発行にも関わったのです。新しい一万円札の顔になって話題を呼んでいる渋沢栄一ですが、実はこんなに昔からお札と関係する仕事をしていたのですね。
銀行や鉄道、製紙会社、ガス、電気―
今でもわたしたちの生活を支える500もの会社を設立・育成
1873(明治6)年に明治新政府の仕事をやめると、渋沢は、新たに会社をつくるために必要な資金を貸し、ものづくりなどの産業をおこすこともできる仕組みを日本に取り入れるため、日本最初の銀行である第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立しました。その後、全国各地のさまざまな銀行の設立・育成のほか、今の全国銀行協会や、東京商工会議所、東京証券取引所など、同じ業界同士が協力し、ともに発展を目指す団体の設立にも関わり、経済界の発展の土台をつくっていきます。
渋沢は、日本鉄道(現在のJR東日本)の発展に努めたり、多くの鉄道会社の設立や経営をしました。鉄道は人や物を遠くまで速く運ぶことができ、経済の発展に欠かせません。また、本や新聞などの印刷物をもっと世の中に広げ、多くの人の学ぶ機会を増やすために、渋沢は安く速く印刷することができる西洋式の紙の製造事業を進めるべきだと考えました。そこで、製紙工場を東京府内の王子村(現在の東京都北区)に開業しました。これは現在の王子ホールディングス株式会社です。ほかにも、ヨーロッパやアメリカを参考に田園調布(大田区)の街づくりをした田園都市株式会社という会社もあります。この会社は、今の東急株式会社、東急不動産株式会社などの会社につながっていきます。
さらに、今の東京ガス、東京電力、帝国ホテル、キリンビールやサッポロビールなどの元になった会社など、渋沢は約500もの会社の設立や経営に関わりました。ほかにも病院、造船、ホテル…渋沢が設立や経営に関わった会社にはさまざまな業種があり、今も経営が続いています。私たちの生活を支える会社もたくさんあります。みなさんも、どれかはきっと会社の名前を聞いたことがあるはずです。
渋沢栄一が大切にした“社会全体のために”
渋沢栄一が人生で大切にしていたのは、「会社の経営で利益を求めることは間違いではないが、経営者は道徳の心を大切にし、得た利益は人々の幸せのために使う」という考え方でした。渋沢にとって会社をつくる大きな目的は、人々のくらしを豊かにすることでした。そのため、会社を設立し、うまく経営がまわりはじめると、別の会社の経営にかかわる、といったように、次から次へと新しい会社をつくりました。会社を作っても渋沢は、会社は自分のものではなく“社会全体のため”にあるものと考えていました。渋沢がつくった会社には、自分の名前をつけた会社はほとんどありません(※)。こうした渋沢の理念が、地域や日本全体の経済の急速な発展につながりました。
※渋沢が自宅の倉庫を使って始めた澁澤倉庫部が株式会社となった「澁澤倉庫株式会社」のみに名前がついています。
渋沢は、社会貢献活動にも力を入れました。こどもから大人まで、さまざまな事情で生活に困っている人を助ける「東京の養育院」(今の東京都健康長寿医療センターなど)の運営にかかわり、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年までの52年間にわたり、院長を務め続けました。とりわけこどもたちのことを気にかけ、「実の子や孫のように思っている。自分のことをおじいちゃんだと思って、自信をもって社会に出なさい」と、亡くなる直前まで施設を訪問しては、くり返しこどもたちに語りかけたといいます。
また、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きたときも、被災者に食事を用意する施設やけが人を受け入れるための急ごしらえの病院の設置を進めるなど、いち早く苦しむ人たちのために行動しました。
このほか、教育活動にも熱心でした。現在の一橋大学(東京都国立市)の発展に努め、東京経済大学(東京都国分寺市)設立を支援したことに加え、「女性にも高い教育をしよう」という考えに賛成し、東京女学館(東京都渋谷区)や日本女子大学(東京都文京区)の設立、運営にも協力しました。
このように、会社の経営だけでなく、社会貢献活動や教育、医療、さらには国際交流などの分野でも渋沢は多くのことを現代に残しました。
渋沢栄一の思いを未来に引き継ぐ
日本が世界の経済大国の一つとなったのは、明治時代の初めに渋沢栄一がまいた未来への種が育ち、大きく花開いたため、と言ってもよいかもしれません。
東京都はベイエリアを舞台に、持続可能性と経済を両立するため、最先端テクノロジーを取り入れたまちづくり「東京ベイeSGプロジェクト」を進めていますが、実はこの取り組みにも渋沢の精神が受け継がれています。
東京から日本の発展の土台を築いた渋沢栄一は、「国全体が豊かになるためには、経済発展の利益を独占するのではなく、社会に還元することが大切である」という考えのもと、持続可能な社会の実践をいち早くうったえました。プロジェクトでは、こうした偉大な先人の精神を受け継ぎ、持続可能な未来を最先端の技術で実現するためのさまざまな取り組みを進めています。
渋沢は91歳で亡くなりましたが、たくさんの人が感謝し、その生き方をたたえ、お別れのあいさつをする人々がつきなかったといいます。渋沢の偉大な功績はとても幅が広く、短い言葉では語りつくせません。
みなさんも新しい一万円札を手にしたときに、東京から日本の発展を支えた渋沢栄一に、ぜひ思いをめぐらせてください。
💡こんなところにも渋沢栄一!
みなさんは、「日光東照宮」を知っていますか? 400年以上前に江戸幕府をつくった徳川家康をまつる栃木県にある有名な神社です。
その写真撮影の人気スポットの一つに「東照宮」と大きく書かれた石柱があります。実はこの文字は、渋沢栄一が書いたもの。渋沢は若いころ、江戸幕府最後の将軍の徳川慶喜の家臣でした。その関係で、1915(大正4)年、徳川家康没後300年祭が開かれたときに渋沢がその開催を支援する団体(日光東照宮三百年祭奉斎会)の会長を務め、1924(大正13)年にこの文字を書きました。徳川将軍家に忠義をつくす、まさに“侍の心”を宿した人物でした。
取材協力、写真提供=渋沢史料館、公益財団法人渋沢栄一記念財団
協力=東京都政策企画局、福祉局
❖渋沢史料館
現在の渋沢史料館が建つ飛鳥山公園の一角「旧渋沢庭園」(北区西ケ原)は、かつての渋沢邸の一部です。現存する2棟の大正建築「晩香廬」と「青淵文庫」は国の重要文化財に指定されており、一般公開しています。
住所 東京都北区西ケ原2-16-1
入館料 個人の場合、小中高生100円、一般300円
開館時間 午前10時~午後5時(最終入館 午後4時30分)
休館日 月曜日(祝日・振替休日の場合は開館)、祝日の代休(祝日・振替休日の後の最も近い火曜日~金曜日の1日)、年末年始(12月28日~1月4日)、臨時休館日あり
交通
・JR京浜東北線「王子駅」下車 南口から徒歩約5分
・東京メトロ南北線「西ケ原駅」下車 徒歩約7分
・都電荒川線「飛鳥山停留場」下車 徒歩約4分
・都バス「飛鳥山停留所」下車 徒歩約5分
・北区コミュニティバス「飛鳥山停留所」下車 徒歩約3分